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『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』
『彼女の汗の匂いだけ、なぜか忘れられない。~匂いに敏感な俺と、秘密のフェチを抱えた女子大生たち~』
Author: 常陸之介寛浩

第1話 「私、やっぱり臭う?」

last update publish date: 2026-09-05 11:32:39

第1話 「私、やっぱり臭う?」

 大学生活というものは、もっと劇的に始まるものだと勝手に思っていた。

 入学式の日、桜の下で運命的な出会いがあるとか、講義室でたまたま隣になった誰かと意気投合するとか、サークル勧誘に巻き込まれた結果、それまでとはまるで違う世界が広がるとか。高校までの俺は、そんな話を小説やドラマの中だけのものだと笑っていたくせに、いざ自分が大学生になると、心のどこかで少しくらいは期待していたらしい。

 だが、私立青葉ヶ丘大学に入学して二週間が経った現在、香坂悠真の大学生活は驚くほど地味だった。

 講義に出て、昼食を食べ、次の講義に出て、帰る。

 以上。

 友人と呼べそうな相手も、一応はいる。基礎ゼミで隣の席になった久我蒼とは何度か昼を食べたし、連絡先も交換した。ただ、久我は今日は午後からアルバイトがあるとかで、一限が終わったところで帰ってしまった。

 だから俺は今、一人で学生食堂へ向かっていた。

「……人、多いな」

 昼休みの中央広場には、嫌になるほど学生がいる。

 別に人間そのものが嫌いなわけじゃない。ただ、人が多い場所は昔から苦手だった。

 春の風が吹くたびに、さまざまな匂いが鼻へ流れ込んでくる。誰かが飲んでいる甘いカフェラテ、芝生の青臭さ、植え込みの土、柔軟剤、香水、ヘアワックス。それから、少し遠くにある学食の換気口から漂ってくる揚げ物の油。

 普通の人間なら気にも留めない程度なのかもしれないが、俺には全部が妙にはっきり分かる。

 生まれつき鼻が利きすぎるのだ。

 犬並み、などと言えば格好よく聞こえるかもしれないが、別に犯罪捜査に役立つわけでもなければ、ワインの銘柄を嗅ぎ分けられるわけでもない。ただ人より少し、いや、かなり匂いに敏感というだけだった。

 そして、この体質は大抵の場合、便利さより面倒のほうが勝つ。

 人混みを避けるように歩きながら、学食まであと少しというところで、俺は前方から勢いよく走ってくる人影に気づいた。

「すみませーん! 通ります!」

 女子学生だった。

 肩に大きなスポーツバッグを掛け、ジャージの上着を羽織っている。長い髪は高い位置で一つにまとめられていて、額には汗が浮いていた。

 どうやら走ってきたらしい。

 しかも速い。

「うわっ」

「きゃっ、ごめんなさい!」

 曲がり角で真正面からぶつかりそうになり、俺は反射的に半歩後ろへ下がった。

 女子学生も急停止した。

「ほんとごめん。大丈夫? ぶつかってないよね?」

「ああ。平気」

「よかった……。昼休み短いのに、ミーティング長引いちゃってさ。って、あれ?」

 彼女はそこで言葉を止めた。

 俺の顔を見る。

 そして、さっき俺が一歩下がった場所を見る。

 表情が微妙に変わった。

「……もしかして、私、なんかついてる?」

「いや」

「顔?」

「別に」

「じゃあ、その一歩は何?」

「一歩?」

「今、私が近づいた瞬間、下がったでしょ」

 かなり細かいところを見ている。

「ぶつかりそうだったからだろ」

「それだけ?」

「それ以外に何があるんだよ」

 女子学生はしばらく俺の顔を見ていたが、やがて、自分の首元を気にするようにジャージの襟を少し引っ張った。

 その仕草で、俺にも何となく察しがついた。

 彼女は走ってきたばかりなのだろう。汗をかいている。

 そこを気にしているらしい。

「……ねえ」

「何?」

「正直に答えてほしいんだけど」

 さっきまで明るかった声が、ほんの少しだけ小さくなった。

「私、やっぱり臭う?」

 一瞬、答えに詰まった。

 質問があまりにも直球だったからだ。

 こういう時、一般的にはどう答えるのが正解なのだろう。

 臭わないよ、と即答するべきなのか。

 だが俺の場合、それは嘘になる。

「……汗の匂いはする」

 言った瞬間、彼女の顔が露骨に曇った。

「ああ、やっぱり」

「いや、待って」

「いいよ、正直に言ってって頼んだの私だし。朝から部活だったから仕方ないんだけどさ。でも、やっぱり人と会う前に着替えてくればよかった。ボディシートも使ったんだけどなあ」

 彼女は困ったように笑った。

 明るく取り繕っている。

 でも、その笑い方が妙に引っかかった。

 昔から俺は、人が嘘をついているかどうかは分からない。だが、匂いに関してだけは、人よりずっと細かく感じ取ってしまう。

 彼女からは確かに汗の匂いがしていた。

 ただ、それだけではない。

 洗いたてのタオルの匂い。薄い柑橘系のボディシート。それに、外を走った後特有の、日差しに温められた服と髪の匂い。

 少なくとも俺には、不快ではなかった。

「別に臭くないぞ」

「今、汗の匂いするって言ったじゃん」

「汗の匂いがするのと、臭いっていうのは別だろ」

「え?」

「汗をかいてるんだから、汗の匂いがするのは普通だろ。でも、それが嫌な匂いかって聞かれたら、そうじゃない」

 彼女は目を瞬かせた。

「……何、その理屈」

「理屈じゃなくて、事実」

「普通、女の子にそんな説明する?」

「そっちが正直に答えろって言ったんだろ」

「言ったけど、もうちょっとこう、言い方っていうものがあるじゃん」

「じゃあ、どう言えば正解だったんだよ」

「知らないよ。『全然気にならないよ』とか?」

「気にはなる」

「最悪じゃん!」

 思わず声を上げた彼女に、近くを歩いていた学生が何人か振り返った。

「声大きい」

「誰のせいよ!」

「だから、悪い意味じゃないって」

「じゃあ、どういう意味なの?」

 詰め寄られて、俺は困った。

 本当に説明しづらい。

「……なんというか」

「うん」

「嫌じゃない」

「それはさっき聞いた」

「むしろ」

 そこで止めればよかったのだと思う。

 今振り返れば、間違いなくそうだ。

 なぜ俺が、その先まで正直に言ってしまったのかは分からない。

 ただ、その時の彼女が、自分の汗の匂いを本気で嫌っているように見えたからかもしれない。

「むしろ俺、その匂い、結構好きかもしれない」

 沈黙した。

 風が吹いた。

 中央広場の木々がざわざわと揺れ、遠くでサークル勧誘の学生が「新入生まだ募集中でーす!」と叫んでいる。

 そんな周囲の音だけが、やけにはっきり聞こえた。

「……は?」

 彼女が言った。

「いや」

 俺はようやく、自分が何を口走ったのか理解した。

「今のは忘れてくれ」

「ちょっと待って」

「忘れろ」

「無理でしょ!」

 頬を真っ赤にした彼女が、俺を指差した。

「初対面に近い女の汗の匂いを『好き』って言う人、私、生まれて初めて会ったんだけど!」

「俺だってこんなこと言う予定じゃなかった!」

「予定があったらもっと怖いよ!」

「だから忘れろって」

「忘れられるわけないでしょ!」

 こちらも恥ずかしくなってきた。

 別に変な意味で言ったわけではない。

 本当にただ、不快ではないということを伝えたかっただけだ。

 それなのに、自分の口から出ると、とんでもなく怪しい発言になる。

 彼女はしばらく俺を睨んでいたが、ふいに何か思い出したようにスマートフォンを見た。

「あっ、やばい! 学食!」

「何?」

「十二時半から友達と約束してるの! もう十二時二十七分!」

「それで走ってたのか」

「そうだよ!」

 慌てて走り出しかけた彼女は、しかし二歩進んだところで止まった。

 振り返る。

「ねえ」

「まだ何かあるのか」

「名前」

「名前?」

「あなたの名前。聞いてない」

 俺は少し迷った。

「香坂。香坂悠真」

「香坂悠真……」

 なぜか確認するように繰り返したあと、彼女は自分を指差した。

「私、夏目陽菜。文学部じゃなくて経済学部。陸上部。あと、別に毎日汗臭いわけじゃないから」

「最後の情報いるか?」

「いる! 非常に重要!」

 夏目陽菜はそう言うと、今度こそ学食へ走り出した。

 十メートルほど進んだところで、また振り返る。

「それから!」

「今度は何だよ」

「さっきの発言、まだ許してないから!」

「別に許してもらうようなことした覚えないけど」

「女の子に『汗の匂い好き』は十分事件なの! 覚えといて!」

 言いたいことだけ言うと、彼女は今度こそ人混みの向こうへ消えていった。

 残された俺は、その場で小さく息を吐いた。

「……何だったんだ、あいつ」

 そう呟いた直後だった。

 風が、彼女の走っていった方向から吹いてきた。

 一瞬だけ、さっきの匂いがした気がした。

 汗。

 洗剤。

 柑橘系のシート。

 春の日差し。

 俺は無意識に、その方向へ目を向けた。

 もう彼女の姿は見えない。

 なのに、なぜだろう。

 今まで何百人、何千人と人間の匂いを感じてきたのに、夏目陽菜という名前と一緒に、あの匂いだけが妙に頭へ残っている。

「……いや、だから何なんだよ、俺」

 自分で自分に呆れながら、俺は学食へ向かった。

 この時の俺はまだ知らなかった。

 数日後、あの夏目陽菜が、まるで俺を避けるようになることも。

 そのくせ、俺が別の女子学生と話していると、妙に遠くからこちらを見てくることも。

 そして彼女との出会いをきっかけに、俺が大学生活で最も関わりたくなかった種類の集団――人間の「好き」を真面目に研究する、通称「フェチ研」へ足を踏み入れることになるなんて。

 もちろん、この時点では知るはずもなかった。

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